2003.03.28 (金) | 「上手い演奏」と「いい演奏」と「完璧な演奏」の関係 |
2003.04.21 (月) | 最近思うこといろいろ |
2003.04.26 (土) | どんな曲でも楽しいのが本当の「音楽」♪(^^) |
2003.04.28 (月) | 「音楽」と「料理」と「絵を描くこと」の関係 |
2003.05.06 (月) | 自分という存在を表現すること |
2003.05.19 (月) | シャボン玉 |
2003.05.20 (火) | 生徒たちよ、ごめんなさい |
2003.05.21 (水) | 「ブルクミュラー」か「ブルクミューラー」か・・・・。 |
2003.06.01 (日) | 「みる」ということ |
2003.06.07 (土) | 常識・・・・?ものさし? |
2003.03.28 (金) 「上手い演奏」と「いい演奏」と「完璧な演奏」の関係 |
「上手い(うまい)演奏」と「いい演奏」と「完璧な演奏」の関係を自分なりに考えてみた。 でも、「完璧な演奏」は実際にはありえないと思う。 「完璧な人間」が存在しないのと同じように。 「音楽」は「好みの問題」だしね。§^。^§ ここで言う「完璧な演奏」とは、聴いてくれる人の好みに合っていて、 なおかつ、演奏者も自分で満足できる演奏のことかな?と思う。 もちろん「いい演奏」っていうのは、 「気持ちがこもった演奏」。 となると、こんな相関図↓かなぁ???? で、ウチのかわいい生徒たちには、完璧を求めはすれど、 完璧までは行かなくても、「いい演奏」ができるようになってほしい。 みどり色になってほしいな。。。。§^。^§ |
2003.04.21(月) 最近思うこといろいろ |
最近、思うこと(悩むこと)が多い。 でも、悩むことはいいことだと思うので、気分は悪くはないが。。。。 やっぱり、この時期、レッスンをやめていく生徒が。。。。 私の指導の至らなさが原因だと思う。 「どんなに忙しくても、ピアノだけは続けたい」と思える程に、ピアノや音楽の楽しさを伝え切れていないからだと思う。 これは、以前から、そして今後の私の最大の課題だ。 |
2003.04.27(日) どんな曲でも楽しいのが本当の「音楽」♪(^^) |
ハ長調4分の4拍子、4小節の曲で、出てくる音は、中央「ド」の音のみ。1〜3小節目までは 全て4分音符。4小節目は全音符。 このような曲でも、「音楽」を考えて弾けば、ちゃんと楽しめる。だって「ド」は「ド」でも、いろんな気持ちをこめれば、全部違う「ド」になるもん♪(^^) 未経験でレッスンを始めたいと思っていらっしゃる大人の方のお試しレッスンでも、こういったレッスンをしますが、 ほとんどみなさま、 「ピアノって、音楽って『奥深い』ですね」とか、 「『ド』だけのレッスンがあんなに楽しいとは思わなかった」など、 おっしゃっていただけたこともあり、私もすごく嬉しいです。 この4月からレッスンを始めた5歳になるHちゃんのレッスンのときも、そんな感じでやっている。 前のレッスンでは、ぴあのらんど1巻の1番、どどどどドーナツ。これは「ド」だけの曲、しかも、8小節全部4分音符。 そんな曲でも、Hちゃんは、いろんな気持ちを込めて弾いたので、とっても「音楽を楽しめた」 昨日のレッスンは YAMAHAのオルガン・ピアノの本1巻の2番「おつかい ありさん」。 この曲は、「どどれれ どどしし どれどし どどどー」で、歌詞は「おつかい ありさん おにもつ えっさっさー」。 いろんな「ありさん」を想像して弾いたら、すごく楽しいレッスンになった。 「ちょっとだけしか買い物できなかったので、荷物は軽いけど、悲しいなー(;_;)っていうありさん」 「大好きなおやつを買ったので、早くおうちに帰って食べたいなーo(^ー^)oっていうありさん」 「つい買い物しすぎちゃって、荷物が重くて重くて よいこらしょっ┗(-_-;)┛お・・重い・・う・・・・って感じのありさん」 レッスンを始めて1か月も経たないけど、Hちゃんは、ちゃんと 「いろんなありさん」を音で表現することができました。 こうやって、5歳の子が想像できそうな「ありさん」をいっぱい弾けば、楽しい。こういうのが「音楽の楽しさ」なんだと思う。 今日は、そんなレッスンの中で、あと、「ブレス」についてもレッスンした。 そして その後の大人の方のレッスンのときのこと。 その方は、独学の期間が長かったせいか、なかなか力を入れて弾く癖がぬけません。 ご自分でも分かってはいるのに、なかなか治らない。 で、その方に、↑上の、5歳の子の今日のレッスンでのこと(いろんなありさん)の話をしました。 そしてその後で曲を弾いてもらったら、なんと、今まであんなに固かった手首が、しなやかにブレスをしたのです。 しかも、今までわりと、「直立不動」みたいに弾いてたのに、自然に身体が揺れました。 弾き終わってから、私が、 「今の演奏、とても音楽的で、表情ついていて、余分な力もぬけていたよ」 と伝えると、 その方は、 「自分では全く意識してなかった・・・・」 と言われたので、 私は、「そうそう、(゚ー゚)(。_。)(゚−゚)(。_。)、意識して身体を揺らすとかじゃなくて、本当に気持ちを込めて弾くと、無意識にそうなっちゃうんだよ〜っ♪(^^)」 って、言いました。 工夫して弾くこと、工夫して教えることは、本当に楽しいと思う。どんなに単純な曲でも、ちゃんと「音楽」になるし、 大人でも子供でも同じです、最初から 「音楽の本当の楽しさ」を味わわせてあげたいな。と思っています。 「歌詞について」と、「音楽の楽しみ方」ということで、そういえば、もうひとつ、思ったこと。 私の場合、歌詞のついていない曲っていうのは、自分なりのイメージというものを表現します。 そして、もっとイメージが浮かび上がると、自然に歌詞までが浮かんで来ます。 聴いた人がそれぞれの感性で自由に発想できるという点では、歌詞のない曲の方が楽しいかなと思います。 最近、私の大好きな曲のひとつ、アンドレ・ギャニオンさまの「めぐり逢い」に日本語の歌詞が付いている曲を、偶然耳にしました。 まず初めに思ったことは、 「これって、アンドレ様はご存知なのかな?あ、でも、著作権があるので、きっと許可はとっているだろうな」 アンドレ様も、きっと、自分の作った曲には、自由な発想でより多くの人に楽しんでもらいたいと思ってらっしゃると思うので、 それはそれで良いことかなと思います。 が・・・・、もし、その「歌詞のついた曲」を聴いた人が、その曲は、そういう曲なんだと思いこんでしまい、原曲を知らずに終わってしまったら・・・・と思うと、何だか悲しくなります。 その人にとって、その曲からのイメージは、その歌詞のイメージ以上には広がっていかなくなってしまいます。 本当の音楽の楽しみ方を知らないままでいる人がいるのかと思うと、なんだか悲しくなります。 私は、生徒達や一人でも多くの人に、本当の音楽の楽しみ方を教えてあげたいなと、改めて思いました。 |
2003.04.28(月) 「音楽」と「料理」と「絵を描くこと」の関係 |
今日、ふと思ったこと。とりとめもないですが・・・・。(^_^; 「音楽と料理の関係」 私は、すごく 手順1.今夜は何をつくろうかなって、「冷蔵庫さん」や「食品収納棚さん」と相談します。 手順2.そこにある材料を使ってできる料理を自分で考えます。 ※レシピも、自分で考えたり、ちょっと料理の本などにアレンジ入れたりします。 最近好評だった料理、「キャベツ焼き」。 小麦粉・たまご・お水を混ぜて、みじん切りにしたキャベツを混ぜ、フライパンで焼く。 焼けたら、ソースをかけ、マヨネーズを碁盤の目のようにキレイに描く。 最後にかつお節と青のりをかっこよく盛る。一見「お好み焼き」のようにも見えるし、実際「好みのもの(実際には、有ったものなんだけど)を焼いたもの」なので、「お好み焼き」と言ってもよさそうなものだが、「お好み焼き」と称するにはあまりにも気がひけたのであえて「キャベツ焼き」と命名した。これがすごい「おいしい」と好評だった。(^◇^;) いつぞやは、鶏肉がなかったので、「鶏肉なしの親子丼」、つまり、「たまご丼」を作った。 レシピは、えっとぉ・・・・「親子丼の作り方」から、鶏肉のところだけ省きゃいいじゃん!(^v^)ニヤって。 そんな具合で、わざわざ買い物に行かなくても、工夫次第、発想次第で、何でも作れちゃいます。 「私って料理の天才カモ?」って娘と息子に言ったら、完全にシカトされましたが・・・・(^_^; でも、これって、音楽・・・・ピアノを弾くときも同じだと思う。 例えば、手が小さいので、どうしても届かないところがあったとき。 その和音の中で、省いてもそれほど響きとしてはおかしくない音をやめるとか、工夫次第で、完璧とは言えないかもしれないけど、ある程度は弾けます。弾くのを諦める必要はない。 要するに料理の材料が=ピアノを弾く人の条件というか状態(手の大きさとか、テクニックとか、想像力とか・・・・) そしてレシピは、工夫次第。 料理と音楽の似ている点は、味付け。 一応は、レシピ通りに作るけれど、自分の好みで、塩・こしょうしたり、タバスコかけたり、一味かけたり、からし塗ったりします。 (^◇^;) 音楽で言うと、それが自分なりに表現したいイメージに近づけるために、音色を考えたり、表情をつけるということだと思います。 「音楽と絵を描くことの関係」 レッスンのときにも、よく生徒に言うのだが、 「譜読みができた状態の弾き方」=「楽譜に記載されていること全部をきちんと弾けた状態」というのが、絵を描くことで言うと、 「輪郭が描けた」「下絵が描けた」状態。 次に、その曲の作られた時代背景とか、作曲家のことを調べたり、曲にタイトルがあれば、その言葉について調べたりと、 とにかく、楽譜には記載されていない、五線の中に作曲家が込めた「思い」というものを、自分なりに考える。 そして、自分は、「こういうイメージで弾きたい」とか、「そのイメージを表現するためには、どんな音色にしたらいいか」を考え、工夫する。 このことが、絵を描くことでいえば、「色を塗る」ということになる。 同じ下絵があっても、どんな色を塗るかは、人それぞれ。でも、ある程度、決まったことがらもあったりする。 例えば、夕日の色は「赤」かな?みたいな。夕日なのに、「黒」で塗ったら、個性的かもしれないけど、一般ウケはしませんよね。 「完璧な演奏」を目指すのであれば、やはり、夕日は「赤」っぽい色でしょうね。 これを読んだ人が、ピアノを弾いたり、音楽をすることの「肥やし」になればいいな〜と思います。(なんないかな?(^_^;) |
2003.05.06(月) 自分という存在を表現すること |
今日は3度目の更新だ。今日は、思うことがいっぱいあった。中でも一番感動したことは、大人の生徒さんのSNさんからのメールを読んだときだった。 SNさんは、体調が悪く、以前からレッスンの休止の連絡をしてくださっていた方です。「また元気になったら、レッスンに行きたい」と。 そのSNさんからのメール。インターネットでこのサイトを見つけ、レッスンを始めた生徒さんは多いですが、私の言葉が足りないせいで、連絡もなくいつの間にかレッスンに来なくなってしまわれる方も多いので、私はとても自分に対して「いったい私はなにをやっているんだろう」と思うことが多い中、こうして連絡くださることは、私にとっては、とても言葉では言い尽くせないほどの感謝の気持ちでいっぱいになります。 本当に私の、音楽やピアノや生徒に対する気持ちを理解してくれているのだなあと思います。 最近、インターネットを通じて、人との出会いが多くなりました。時には、すごく自分が傷ついたと思えることもありますが、それはただそのときの一瞬の感情でしかないと思います。 私の好きな言葉の一つに「どんなことでも必ず【意味】がある。」ということばがあります。 私は、どんなことでも、必ず、自分にとってマイナスになることはないと思います。 今まで、私が経験してきた全てのことをプラスに考えてやってきたからこそ、今の自分が有るわけで、それが全部私の音楽の中に「ピアノの音色」として表現されているわけなのだから。 人間って、自分が何故ここに存在しているのかと言うことを考えて生きていかなければならないと思います。 私は、少なくとも、何か人の役に立つことで、自分の存在と言うものを実感でき、生きていられると思います。 私にとって、音楽はなくてはならないものです。 私は、自分を表現し、自分の存在を分かってもらえるために、それを音楽で表現したいと思います。 「楽譜が読めて、楽譜に書かれていることを忠実に再現できること=音楽」では決してないのです。 音楽はもっと奥深いものがあると思います。自己表現ができてこそ、それが本当の「音楽」なのだと。 私は、ただ単に「ピアノの奏法」や、「楽譜の読み方」を指導しているのでは有りません。 本当の意味の、ひとそれぞれに感じる「音楽」、 「自分という存在を表現すること」がピアノという楽器を通じて奏でられるように、と思っているのです。 例え夕日が黒くても、私は、その人が夕日を見たときに、そう見えるほどの感情がそこにあったのならば、 それは黒くてもいいと思います。(これは、一つ前の日記のこと) 「完璧な演奏」ではなく、私は、「いい演奏」のできる生徒になってほしいという気持ちは、ここにあるのです。 |
2003.05.19 (月) シャボン玉 | |
あー、「歌」というのは、「音楽」というのは、なんて深いんだろう・・・・。 この曲に込められた作詞者の本当の気持ちを知ったならば、 悲しくて切なくて胸がいっぱいになり、涙なしでは歌えない。 しかも、雨情さんの亡くされたお子さんの名前はなんと「みどり」というそうな。 私は、きっとこんな私でも今生きているということだけで、 私の両親にとっては、うれしいことなんだなーと思う。 そういえば、ふだんどんなに手こずらされても、自分の子供や生徒たちは、 そこに居てくれるだけでほんとうはうれしいんだよなって、あらためて思い知った。 音楽は本当に奥深い。 「グリーングリーン」という曲 (片岡 輝 作詞、B.Mcguite Rspark 作曲、小森 昭宏 編曲) も、涙なしでは歌えない。 以前、レッスン日記にも書いた シューマンの「サンタクロースのおじいさん」にしても、 どんな曲でも、曲名から自分で勝手に想像したり、 ただ楽譜通りに再現するだけではだめですね、やっぱり。 ちゃんと「作者の思い」を再現しなきゃ。 音楽には、それぞれ作者が何か「伝えたい思い」があって 作られたものなのだから、それをちゃんと理解し、表現しなきゃね。 楽譜だけでは書き表わしきれない「作者の思い」というもの。 それは、演奏するものが自分から調べようとしないとわからない。 楽譜に書かれていること、目に見えるものだけで満足できるようじゃあ、 本当に「音楽をやっている」とは言い難いと、あたらめて思った。 |
2003.05.20 (火) 生徒たちよ、ごめんなさい |
ブルクミュラー 25の練習曲 最近、知ったことですが、「ブルクミュラー25番練習曲集」の中で、何十年もの間、タイトルが誤訳されていた曲があります。 それを知るまで、誤訳の曲名のイメージでやってきてしまいました。知らなかったとはいえ、間違った解釈でレッスンしてしまった生徒たちよ、ごめんなさい。m(__)m なお、詳しくは、全音楽譜出版社の「ブルクミュラー 25の練習曲(北村智恵先生の校訂・解説です)」に解説されています。 それから、「ブルグミュラー」なのか、「ブルクミュラー」なのかということですが、昔の教本では濁点「゛」があったのですが、最近では、ドイツ語で「G」は濁らずに発音する事から「濁点なし」が一般的に広まって来ているようです。 バッハ アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小曲集 先日、石嶺先生のサイトで石嶺先生が発見というかお気づきになり、私もとんだ「思いこみ」をしていたのです。 この曲集の中の曲は全てがJ.S.バッハ(ヨハン・セバスチャン・バッハ)の作品ではないということ。 これも、私の勝手な思いこみで、生徒に間違ったことを伝えていました。ごめんなさいm(__)m やっとすっきりしたよぉー、この前からずっと、自分で気持ち悪くてたまんなかったのよ、実は。 一応、ホームページで全世界へ向けて(ちょっとオーバーかな?(^_^;)謝罪したので、やっと気持ちがスッキリしましたぁ(^^;;) エヘヘ・・。今度、「klavier News」にも書かなくっちゃね。 自分自身の反省:使い慣れてるテキストでも、解説はちゃんと読むべし。。。。(*_* )\( ̄ ̄ ) |
2003.05.21 (水) 「ブルクミュラー」か「ブルクミューラー」か・・・・。 |
昨日に引き続き、ちょっと悩んだ。 今日、大人の生徒さん(きょーこさん)のレッスンのときに、昨日の日記(↑)の話題になり、いろいろ話していたときに、気が付いたこと。 全音楽譜出版社の「ブルクミュラー 25の練習曲(北村智恵 校訂・解説)」の表紙には、「ブルクミュラー」になっているのに、中の解説では、「ブルクミューラー」になっているではないか・・・・。 結局、「U」の文字の上に「・ ・(点)」が付いたドイツ語の文字は、他に、「エチュード」もあるが、それも「エチュド」ではなく、「エチュード」と発音するのが一般的だということから、やはり伸ばして発音するのが正しいのではないかという意見に達したので、今後私は、「ブルクミューラー」と発音することにした。 まあ、いづれにせよ、そんなことよりもやはり、ブルクミューラーさんが込めた「思い」を音で表現する事の方が一番大事なんですよね・・・・(^○^) そういえば、今ちょうど二十歳の子が中学生だったころ、学校の音楽のテストで、「cresc.」を「クレッシェンド」って書いたら×にされたと言っていて、正解は、教科書通り「クレシェンド」って書かなきゃ○にならないそうで。 その話を聴いたときに、学校の音楽の授業は「音楽」じゃないぞと思った。 それと同じようなことかも。(^◇^;) |
2003.06.01 (日) 「みる」ということ | |
「みる」と言う言葉を辞書で調べると、すごくたくさんの意味がある。 (以下「goo辞書」サイトより引用) みる 【見る】 (動マ上一)[文]マ上一 [一] (1)視覚によって、物の形・色・様子などを知覚する。 「建物を正面から〈みる〉」「〈み〉たことのない鳥がいる」「不正を〈み〉て〈み〉ないふりをする」「〈みる〉からに強そうな男」「しばらく〈み〉ないうちにずいぶん変わった」「〈みる〉も無残な最期」 (2)(「観る」とも書く)風景などを、そこへ出かけていって楽しむ。見物する。 「桜を〈み〉に行く」 (3)(「観る」とも書く)芝居や映画、スポーツの試合などを鑑賞する。 「まだ歌舞伎を〈み〉たことがない」「内野席で野球を〈みる〉」 これでまだ氷山の一角、半分もいってないぃー。(x_x) 私は最近、本当に「見る」ということは、目では見えないものを見るということなんだなあと、改めて実感しています。 音楽にしても、楽譜に書かれている「目に見えること」だけを音に再現したって、それは本当の意味での「音楽」にはならないし(これはシャボン玉の日記にも書きましたが)、人を外見だけじゃなく、いえ、外見よりも中身=性格や価値観などを見なくちゃいけいない。「心の目で見る」ということかな。 ついでに、「きく」と言う言葉も漢字では「聞く」と「聴く」がありますね。 「聞く」はただ聞こえてくることを聞くだけ。「聴く」は、「心の耳で聴く」ということ。 私はいつもこの2つの漢字はそう言う風に判断して、使い分けてる。 「見る」という言葉も、「心の目で見る」ときは、私は「観る」という漢字を使っています。(使い方、間違ってるかもしれませんが) 私の友人の、ハンドルネーム「くま」さんは視覚障害者。 くまさんとの出会いは、教室のイベントで、いつも「ゲスト演奏」をしてくれている「うっちぃさん」のホームページの掲示板だった。 その後、メールや掲示板で会話し、先日(2003年5月29日)、とうとう念願叶って、くまさんとお会いすることができた。うちに遊びに来てくれたのです♪ くまさんは、「音声ソフト」を利用してパソコンやインターネットを使いこなし、また、ピアノも趣味で弾いたりされているということで、私の演奏をいっぱい聴いてもらったり、くまさんの演奏も聴かせていただきました。 くまさんが弾いてくれた中で、一番楽しかったのは、「田舎の踏切事故(くま作曲)」という曲です(^O^) 翔平くんのレッスンも見学していただき、翔平くんや翔平くんのおじいさまとも会話され、とても有意義で楽しい一日を過ごすことができました。 それからもうひとつ。その日、娘の優実は体調が悪いということで、学校から連絡があり、あわてて迎えに行ったら「ピンピン」してました。どうやら先生の話では、身体的なことではなく精神的なことが原因だろうということで早退してきました。 そして、優実も、くまさんに演奏を聴いてもらったのですが、くまさんは心の耳で聴き、心の目で見ることができる、すばらしい人だと思いました。なぜなら、翌日くまさんは、 「昨日、優ちゃんがピアノを弾いてくれたとき、何かに迷ってるものがあるなって感じた。 それがどんな悩みかは分からないけれどやりたいことはあるのに思い通りに進まなくて何となく焦っているような感じがした。」という、優実のことを心配してくださり、とても優しい気持ちのこもったメールを送ってくれたのです。 くまさんは本当に、視覚的にものを見ることができる私などよりも、真実を見て生きてきた人だと思い、自分は視覚的に見えるということに甘えて生きてきたんだなぁと、自分を反省すると共に、くまさんや、くまさんににめぐり会えたことに感謝の気持ちでいっぱいになりました。 私は次の日に、くまさんへ「くまさんに会えた感想と、会った日のことを この日記に書きたい」というメールを書きました。それから、「音声ソフト」についての紹介などもホームページでできればいいなあということなども。 くまさんからのメール
くまさんに出会ったことは 私にとっても翔平くんにとっても、よい経験になったと思います。翔平くんにも、感想文を書いてきてくれるようにお願いしておいたので、次回のレッスンが楽しみです♪o(^ー^)o |
2003.06.07 (土) 常識・・・・?ものさし? | ||
私の嫌いな言葉というか、すごく気になるというか、使うときには、本当に考える言葉=「常識」。 「常識」って何? 辞書では、 (1)ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。 「―では考えられない奇行」「―に欠ける」 (2)「共通感覚」に同じ。 共通感覚とは? 五感の根底にあってそれらに共通するものの感覚。また、ある社会で一般に通用する判断力、すなわち常識をも意味する。 だそうな。ふ〜む・・・・。むずかしい。。。。 何を「ものさし」にするのかなぁ。と考えると、「常識」と言う言葉を使うことをためらう私。 ピアノのレッスンで、特に「表現」=「どんな音楽にしあげるのか」という段階では、生徒を「ものさし」にしなきゃね。自分の「ものさし」でレッスンを進めていこうとしたら、それは、「生徒自身の音楽」ではなくてただ単に「先生のコピー」の演奏になっちゃう。 やっぱりピアノを通じて「音楽」をやっていくのならば、ただ「演奏ができて良し」だけではなく、音楽を通じて「目にはみえない何か」(それって、きっと「こころの成長」かなと思う)を、うながしてあげることが大事だと思う。 私は、何のためにピアノ指導者をやってるのかを考えてみれば、自分が音楽によってすごく精神的に助けらているので、その音楽のすばらしさをわかってもらいたいからなのだから。 私のそういう思いが少しでも生徒に伝えることができていることを確認できたと感じるとき、私は幸せを感じる。本当にありがたいと思う。
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